宮澤 正明さんプロフィール

みやざわ まさあき
1960年東京生まれ。日本大学芸術学部を首席で卒業。処女作『夢十夜』でアメリカ写真界のアカデミー賞と称されるICP第1回新人賞を受賞。女優、ミュージシャンなどの写真集から広告、雑誌、さらにはインターネットまで幅広いメディアで活躍中。
代表作「RED DRAGON」「伊勢神宮」「蝶 LIVING IN JAPAN」

写真家『宮澤 正明』公式サイト
www.mmmp.net

映画『うみやまあひだ』公式サイト
www.umiyamaaida.jp/

Interview005

写真家/映画「うみやまあひだ」監督・撮影監督
宮澤 正明さん

ー宮澤さん初監督作品となる映画「うみやまあひだ」が一月末から全国公開が始まりまし た。伊勢神宮との出会いは、どのようなものだったのですか?
伊勢神宮との出会いは今から約二十数年前です。私は赤外写真処女作品「夢十夜」でニューヨークのICP新人賞を受賞した経歴もあり、暗闇の中での祭儀が多い伊勢神宮の方から、暗闇の中でも祭事の邪魔をする事無く鮮明に写真を撮る事ができる赤外線写真の技術について、ご相談を頂いたのが最初です。そのご縁があって、今回の第六十二回式年遷宮の撮影を約十年間させていただく事になりました。

ー暗闇の撮影、というのは興味を惹かれます。赤外線写真、というのは聞きなれませんが、 どのような写真なのでしょうか。
一般的な撮影と違って、赤外線だけに反応するように撮影する写真です。赤外線は人の目に見えないので暗闇の中で撮影しても、人に気付かれる事はありません。普段見ることの出来ない光で撮影する特殊な撮影ですから、極めて幻想的で芸術的な写真が撮れます。 日本大学芸術学部写真学科に在籍していた時、人とは違う世界を求めていました。ある日、偶然見た一枚の写真に私の心は引き込まれ、その世界を自分でも表現したいと研究し赤外線で撮影された写真である事を突き止めます。そこから、赤外線写真の世界に没頭していきました。

ー学生時代に原点があったのですね。人とは違う世界を求めておられた学生時代について、 もう少し教えて頂けますか?
日本大学芸術学部写真学科、というと日本中の写真を目指すエリート学生が集まる大学でした。当時の私は映画や文学には長けていましたが、高校時代まで本格的に写真を撮った事はありませんでした。受験校を選定するにあたり、映画表現を将来目指したかったのですが、自分の性格もあり、多くの人と接する仕事でなく、一人で完結でき表現する事のできる職業を目指すことにしました。半ば試しに日本大学芸術学部写真学科を受験してみたところ、幸運にも合格を頂き入学しました。
当初、百数十名の新入生を前に先生が「毎年聞くのだが、まさかこの中で暗室に入った事が無い人はいないだろうな」と冗談を飛ばしましたが、 本格的に写真を撮った事のない私が暗室など入った事がある訳も無く、恐る恐る手を上げました。他に二人の女性が手を上げていました。写真家への始まりは、正にゼロからの出発でした。
正直、学生時代の前半は周囲の写真に対する異様な情熱の高さに馴染めず、一人浮いている存在で、写真に興味が持てない自分がいました。友達からは、「入学したくてもできない人がいるのに失礼だ」「ヤル気が無いならやめろ」などと随分批判もされました。自分でも何を自分が求めているのか、さっぱり見えてきません。著名な写真家のアシスタントもやりました。心配した先生の勧めで、米タイム・ライフ誌の専属カメラマンだった三木淳先生のゼミに聴講生として二年生から参加させて頂きました。三木先生は随分厳しい方で、写真の猛者達も中々認めてもらえません。悩める私には「君は、とりあえず自分のやりたい世界を決めろ。色んな写真をまず見ろ!」と叱りました。何だかよく分からないままに、私は図書館で写真集をかたっぱしから見て周ることにし、そこで、手にしたのが一枚の赤外線写真の作品でした。脳を直接殴られたような衝撃で目が離せなくなりました。その写真は、あまりに幻想的で、独創性にあふれた作品で、私が求めていた世界観はこれだ、とその場で悟りました。それから、毎日普通の写真はそっちのけで、赤外線フィルムのみで撮影しました。
特殊な撮影方法である為、周りには一人も赤外線写真を扱える人はいません、毎日が試行錯誤の連続で撮影して暗室にこもる日々でした。この時に、写真に対しての情熱が溢れ出たのだと後で気がつきました。そうして、一年ほどたったある日、三木先生に自分で撮影した赤外線写真を見てもらいに行きました。いつも私の作品を評価してくれなかった先生が、その赤外線写真をじっと凝視して「君は、天才かもしれない」と 言ってくれた事が写真家人生の始まりだと思います。

ー大先生との貴重な出会い、そして先生の叱咤激励を真に受けて行動したところから道が開けたわけですね。
三木先生は、厳しくも愛に溢れた方でした。今の大学には、そういう先生はだいぶ減ってしまったような気もします。日本大学芸術学部写真学科の就職率は当時99.9%。 新聞社、雑誌社、広告代理店と、周囲は全員就職先を決めていきます。私もどこを受けようかと三木先生に相談に行きました。そうすると、ニコニコしながら「ああ、お前はもう俺が考えてるから。お父さんに電話しておく」と言って内容を教えてくれません。仕方がないので父に電話したところ、「先生から、お父さん、宮澤君の事を二十五才まで面倒みてやってくれませんか、と言われたぞ。就職させずにフリーでやらせたいそうだ。だから父さんも、分かりましたと答えておいた。」と。
私にしてみれば、後ろ盾もなくフリーで社会に放り出されるのです。
当の本人には、フリーでやっていく自信もありません。そんな中で卒業を迎えました。卒業の時に、作品を撮り続けるしか道は無いと覚悟を決め、赤外線写真の作品を次々と製作していきました。
そうして二年の月日が過ぎた頃に、ニコンサロンというプロの登竜門のギャラリーの審査に通り初の個展を開催する事ができました。この事がきっかけで、人生の転機が訪れます。二十五才の時、ニューヨークのコーネル・キャパが立ち上げた国際写真センター(ICP) で開かれる国際的な写真コンクールで、第一回新人賞を受賞することになるのです。今思えば、三木先生があのような強引なやり方で写真界に送り出してくれなかったら、今のような写真家にはなっていなかったと思います。あの時赤外線写真に出会い、三木先生から与えられた二年という時間を使い作品を創っていなかったら、今の自分は無く、伊勢との出会いも無かった事でしょう。三木先生との出会いが今日の私の原点であったと思っています。
最近はそういう指導者が減ってきているような気もするので、今の若い人達が少し可哀そうだなとも感じています。

ーさて、その伊勢について少しお聞かせ下さい。宮澤さんの感性から見た伊勢神宮は、どんな風に見えるのでしょうか。
伊勢とのご縁を頂く前に、熊野三山の撮影をしていました。この時一緒にやっていた方の紹介で伊勢とつながる事になります。伊勢と熊野は同じ自然豊な場所であるという大きな共通点はありますが、伊勢は自然と「共存」していて、熊野は 自然と「同化」していると思います。一般的には人を中心とした社会では自然を犠牲にするという一面が大きくなりますが、伊勢は人の営みと自然の営みのバランスを絶妙に保ちどちらも犠牲にせずに「共存」している。ある意味、人工的とも言えるのですがそれを感じさせない自然との一体感を創り出しています。そのバランスを千三百年間という永い期間保って今日まで脈々と続いている。自然と上手に生きていく、循環のサイクルが伊勢にはあるのだと感じています。
私は伊勢神宮の宇治橋を渡ると、なぜかホッとします。仕事柄、世界中の大自然を多く撮影してきましたが、大自然は生命の原点であり偉大で奥深いのですが、時折人間を寄せつけない恐怖の面もあります。伊勢神宮にはそれが無く、人が無防備なままで佇んでも暖かく許してもらえる安心感というか、自然との共存共栄の空気が流れている気がします。写真集の撮影や祭事で夜間に撮影した事があるのですが、夜の闇が怖いと感じる事もなく清らかな闇だと感じた事も、やはり伊勢の森が人を許容してくれているのだと感じました。
ある日、神職の方に「早朝参拝しましょう」と誘われた事があります。「宮澤さん、空気が美味しいでしょう。この空気は神様が誰にでも平等に無尽蔵に与えて下さっているんですよ」 と教えて頂きました。目から鱗が落ちたという感覚で、自分が何か大きな者に生かされているという事に気付かされました。ホッとする伊勢の澄んだ空気の中で森と共存共栄を成してきた伊勢の森の奥から、耳では聞こえない声を感じる事が出来た経験でした。

ー最後に、映画「うみやまあひだ」について、ひとことお願いします。
今回、初めて監督として映画を撮影する機会を頂きました。伊勢神宮で教えられた自然との共存共栄こそが、海と山の間に人が生活する国「日本人」の営みの原点であるとの思いから、伊勢神宮を出発点として「日本人」の心を掘り下げてみました。日本中に森を大切にしなければと訴えている方々が多くおられる。その方達の声により、この映画は進んでいきます。解説も何もありません。この映画を見た一人一人が、自由に何かを感じてくれたらと思っています。映像も、写真家としての視点にこだわり、ドキュメンタリーとしては日本で初めて4K映像で撮影しています。伊勢神宮の森が語りかける声が上手くつかまえられたのではないかと思っています。一月末の伊勢を皮切りに、全国上映を予定しています。お近くで上映の際には是非、映画館に足を運んで自分の中にある日本人を感じてもらえたらと思っています。